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能を愛好した権力者たち

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」、緊急事態宣言による撮影中断に伴い長らく放送も中断していましたが、ようやく先日8/30から再開しました。今後の展開が益々楽しみですね。

この作品のなかで、向井理さん演じる室町幕府13代将軍「足利義輝」が能を観賞するシーンはこれまで3度放映され、その演目は「敦盛」、「春日龍神」、「箙(えびら)」でした。

本ブログのなかで、これまでいくつか能の演目紹介をしてきましたが、今回は能の歴史と、時の権力者たちに能がどのように愛好されてきたかをご紹介したいと思います。

能の起源は、奈良時代に中国から渡来した「散楽(さんがく)」
という器楽や歌舞、曲芸などの多様な芸能と、日本に古来から伝わる豊穣などを祈る神事や農村での舞踊との融合と言われます。

そのような芸能を興福寺や春日大社など有力寺社に奉仕するなか、鎌倉時代中期には「座」と呼ばれる専門者集団が現れます。なかでも結崎(ゆうざき)座⇒のちの「観世(かんぜ)流」、外山(とび)座⇒のちの「宝生(ほうしょう)流」、円満井(えんまんい)座⇒のちの「金春(こんぱる)流」、坂戸(さかど)座⇒のちの「金剛(こんごう)流」、が特に知られ「大和猿楽(やまとさるがく)四座」と呼ばれていました。

観阿弥(1333-1384)の結崎座は、笛などで拍子を取り軽快に舞う田楽と優美な曲舞を合わせたスタイルで注目を浴び、大和の国のみならず京都でもその名を広めていきました。 一座の噂は時の将軍 足利義満(1358-1408)の知る所となり、観阿弥らが巡業で訪れていた新熊野(いまくまの)神社に義満はわざわざ赴きます。この時、観阿弥の息子で当時11歳の鬼夜叉、後の世阿弥(1363-1443伝)と出会います。 義満17歳のことでした。

室町幕府における政治/経済/文化の最盛期を築いた3代将軍 足利義満は、美少年 世阿弥を傍に常におき、能を手厚く保護しました。以来、武家社会において能をお抱えの芸能とする風潮が広まります。義満のもとで教養と研鑽を積んでいった世阿弥は、代表作となる能「井筒」をはじめ50曲以上の作品を創作し、理論書「風姿花伝」を著し、能の大成者と呼ばれます。

豊臣秀吉(1537-1598)が茶の湯とともに能を愛好したことは、よく知られることですが、彼が能に没頭したのは、千利休の切腹後、晩年の10年に満たない期間だったと言います。しかしその傾倒ぶりは文字通り「能三昧」の日々だったようです。稽古に忙しいと書いた手紙も見つかっており、自身の生涯を題材とした「豊公能」と呼ばれる作品群も新たに作らせました。

秀吉は、贔屓にしていた金春をはじめ、観世・宝生・金剛の大和四座の役者たちに「配当米」を与え支配下におき、この保護政策はその後の権力者たちに受け継がれていきます。

伊達政宗(1567-1636)は幼少期から能に触れており、青年時代に秀吉の舞いに合わせて鼓を打ったと伝わります。政宗は、毎年3万石を費やして能を保護し家臣にも能を習わせました。

武将自らが舞うことは「大名能」と呼ばれ、当時の武将は互いの屋敷を行き来して能を舞うこともあったようです。大名能を楽しむ間は無礼講で、身分の上下は問わず、遠慮なく情報交換を行ったといいます。このように、能は武士たちの社交場としての側面も持っていました。

江戸期においては、2代将軍 徳川秀忠(1579-1632)が、喜多(北)七太夫(1586-1653)を愛護し、能と狂言を幕府の「式楽」と定めました。秀忠の子3代将軍 徳川家光(1604-1651)も七太夫を庇護、元和年間には金剛流から独立し新たな流派として「喜多(きた)流」が成立していきました。伊達政宗も追随する形で喜多流を賞翫し、晩年の政宗が家光のために能楽鑑賞会を催したり、家光の舞いに鼓で伴奏した記録が残っています。

5代将軍 徳川綱吉(1646-1709)は、日頃演じられない珍しい曲を観ることを好み、廃絶されていた古曲を積極的に復曲させ上演させました。綱吉の時代に復活した曲は41曲に及び、そのうち20曲は現在まで各流派で演じられており、「雨月」、「大原御幸」、「蝉丸」などが含まれます。

6代 徳川家宣(1662-1712)も同様に古曲の復曲に力をいれ、「砧」などがそれとされます。48歳からの在位3年の間に生類憐みの令と酒税を廃止した家宣ですが、能においても後世への業績を残しています。

 

(事務局:ふな)

腹をくくる、ということ

退路を断って腹をくくる。実に潔い態度ですが、いざやるとなると、なかなか難しい行動パターンです。

 プロ野球の世界では、日々チーム内でレギュラーを確保するための弱肉強食の争いが展開されています。たとえば、4人が定員の内野手(バッテリーを除く)、3人定員の外野手の当落線上にある選手は、試合に出るためには自分の専門にこだわっていられない場合もあります。ロッテの角中選手は、首位打者タイトルを二度獲得した名外野手ですが、その彼も、ことしは一塁守備も練習するよう、すすめられたそうです。しかし彼はその誘いを断り、一外野手としてレギュラー争いに加わっています。

こうした潔い態度の裏側には、①自分の実力がわかっている ②その実力が客観的に評価できる ③勝負しても勝算がある、あるいは十分な可能性がある、といった自己分析が行われているに違いありません。自らの力を信じ、敢えて許容範囲を狭めて挑んだ角中選手は、腹のすわった冷静な勝負師であると思えるのです。

 世の中というのは何が起こるかわからない、風の吹き回しという言葉があるように、明日のことさえ不確実だから、半身の構えでいるのが一番安全、という考え方があります。腹の中にため込んだ事々を、この際、腹を割ってぶちまけてしまうべきか迷い、いやまだ時期尚早、という煮え切らない半身の姿勢での自己判断の下に、重要な情報が闇に葬られることのなんと多いことか。「腹のうちを読まれない」「腹三寸」、熟成した日本人が得意とされる「腹芸」は、老獪な処世術であると同時に、ひとを律すべきモラルを「芸」の領域に貶めている悪習なのかもしれません。

 ありのままに、己を虚しくして、心中のわだかまりを最小限にして生きることは、なかなか難しいことです。しかしシニアになって、生臭いしがらみから少しずつ解放されたら、腹をくくって、余計な道は断って、純度の高い生き方に向かうことを心がけたいものです。(大賀巣徒)

産経新聞「朝晴れエッセー」から

 産経新聞朝刊の第一面下部に「朝晴れエッセー」というコラムがあります。一般読者向け投稿コラムです。全国紙の第一面に、読者投稿スペースが設けられているのは珍しいのではないでしょうか。

 さて8月26日の同欄は「命との向き合い方」という題名で、若いお母さんからのものでした。幼い娘さんが、カマキリの死骸をみつけ、きれいな状態だったからなのか、持ち上げて手のひらに乗せたところ、死骸の中からアリが出てきてびっくり、地面に落とすと更に無数に這い出してきたアリが、カマキリの死骸を覆いつくしてしまいました。

当然そのお嬢さんは大ショック。その時、このお母さんが「カマキリは死んだからアリのご飯になったの。生き物はこうして死んだ生き物を食べて生きていくんだよ」と話すと、悲しそうな何とも言えない表情を浮かべていたそうでした。

しばらくアリを避けていたこの娘さんは、ある日見つけた虫の死骸をアリの中に置いて「アリさん、ご飯だよ」と呼びかけたとのこと。娘さんの中で、いのち、少し大袈裟に云えば生命の連鎖への気持ちの折り合いがついたようだと、このお母さんは感じました。

 今年私たちは、多くの人がコロナウィルスで否応なく日常を遮断され、時には無慈悲に命を奪われ、その悲しみを分かち合う機会さえ与えられない、という過酷な現実を目の当たりにしました。そして、大きな不安を抱えた中で迎えた夏休み。この限られた貴重な期間、コロナ禍と猛暑を避けるために子供たちが自然と戯れ、虫や草花や小動物たちのいのちと向き合う機会が奪われているのでは、と心配になります。自然から学ぶことには、体験するしかないからです。今年は梅雨が長く、夏の盛りが短く感じられるのか、蝉の声がひときわ響くような気がします。(T生)