新現役!シニアわくわくブログ

シニアに役立つ情報や新現役ネットの活動について発信していきます。

迎賓館赤坂離宮とフレンチ昼食

四谷見附の交差点から南側をのぞむと壮麗な西洋宮殿がみえます。国賓や公賓をお迎えするこの「迎賓館赤坂離宮」は、 平成28年から一般公開が始まりました。

今回の新現役ネット見学会は、平成29年2月から約2年に及んだ「朝日の間」のリニューアル工事終了を記念した『朝日の間特別展』の開催期間(7/4~9/10)に実施しました。

日時:令和元年7月16日火曜

行程:JR四谷駅赤坂口10:00集合 ⇒迎賓館赤坂離宮本館・主庭・前庭を自由見学 11時45分再集合 ⇒フレンチ昼食『オテル・ド・ミクニ』 12時15分~ ⇒食後解散 

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かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があったこの場所は、明治を迎え皇室に献上されました。そして明治42(1909)年、のちの大正天皇の東宮御所として、片山東熊の総指揮のもと日本で唯一のネオ・バロック様式の西洋宮殿が建てられました。完成時に明治天皇から「豪華すぎる」との評価を受けた東熊は気に病み、その後病気がちになってしまったそうです。太平洋戦争後は国に移管され、昭和49(1974)年に迎賓館として生まれ変わりました。

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上の写真がリニューアルした朝日の間です。リニューアル前の絨毯やカーテンなどを実際に触れられるコーナーがあり、その触り心地に卓越した技術を実感し驚きました。

迎賓館赤坂離宮は、建物の細部から調度品にいたるまで、まさに贅を尽したという表現がぴったりくる素晴らしい場所でした。

見学後は、歩いてフレンチレストラン『オテル・ド・ミクニ』へ。三國シェフからメニューを説明いただき嬉しかったですね。

当日はあいにくの空模様でしたが、ご参加の皆さまのご協力のおかげで、自由見学後の集合やお店への移動もスムーズでした。ありがとうございました。

 

(事務局:ふな)

被災地の夏 ―南三陸で出会った若者たちー

連日の猛暑に疲れ果て、東日本大震災の直後から通いつめている南三陸の海と地元自治組織のリーダー高橋さんの顔が見たくなり、帰省ラッシュも省みず思い立って南三陸の歌津におもむいた 

高橋さんは泊浜漁港に近い釣り宿のご主人で、大震災発生以来地域再生のため獅子奮迅の大活躍をしてきた地方自治の鑑のような友人だ。 

中学卒業以来、南氷洋の捕鯨、サケ・マスの遠洋、サンマ、カツオ、ヒラメなどの近海、ワカメ、アワビ、ウニなどの沿岸と、漁業万般に長けた高橋さんの懐の深い人生譚は、いつ聞いても心を打つ。 私が晩節に出会った最高の友人だ。

高橋さんの釣り宿で男女20名ほどの学生たちと同宿した。 

話を聞くと、関西の某国立大の教育学部の学生で歌津地区の小学校数校の子供たちの夏休み補習授業を約一週間にわたって行っているとのこと。 

大震災後児童たちの力低下を補うため発生直後の夏から9年間続けているそうで、担当教授の指導の下、先輩たちを引き継いでのボランティア活動だ。 

私もこの9年間被災地で支援活動に汗を流している多くの若者たちと出会ったが、今回も学生たちの清々しい笑顔を見ながら、「こんな若者たちがいる日本も捨てたもんじゃあないな。」と改めて実感した。 

「新現役ネット」の加藤タキ副理事長から頂いた言葉、<できる人が、できることを、できるだけやる>を思い起こさせる若者たちに出会ったことはこの夏のとてもうれしい出来事で、老骨鞭打っての私たちのささやかな支援活動への励ましにもなった。 

夜半の釣り宿の枕元で海鳴りを聞きながら、この9年間、歌津で出会ったさまざまな人たちに想いを派すキネマスキーだった。 

 

事務局:キネマスキー 

 

終戦の日:字のないはがき

日曜朝のNHKラジオで「落合恵子の絵本の時間」という絵本を紹介する番組があるが、先週日曜日は、向田邦子氏の「字のないはがき」というエッセイを原作とした絵本の紹介をしていた。終戦の日に向けたいい話だなと思い、同原作をネット検索したところ以下の文章を見つけたので紹介させていただく。中学校国語の教科書にも掲載されているようだが、今の中学生はこれを読んでどのように感じるのだろうか、聞いてみたい気がする。

「字のないはがき」
死んだ父は筆まめな人であった。私が女学校一年で初めて親元を離れたときも、三日にあげず手紙をよこした。当時保険会社の支店長をしていたが、一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で、「向田邦子殿」と書かれた表書きを初めて見たときは、ひどくびっくりした。父が娘あての手紙に「殿」を使うのは当然なのだが、つい四、五日前まで、「おい、邦子!」と呼び捨てにされ、「ばかやろう!」の罵声やげんこつは日常のことであったから、突然の変わりように、こそばゆいような晴れがましいような気分になったのであろう。文面も、折り目正しい時候のあいさつに始まり、新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の種類まで書いてあった。文中、私を貴女とよび、「貴女の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引を引くように。」という訓戒も添えられていた。ふんどし一つで家じゅうを歩き回り、大酒を飲み、かんしゃくを起こして母や子供たちに手を上げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情にあふれた非の打ちどころのない父親がそこにあった。暴君ではあったが、反面照れ性でもあった父は、他人行儀という形でしか十三歳の娘に手紙が書けなかったのであろう。もしかしたら、日ごろ気恥ずかしくて演じられない父親を、手紙の中でやってみたのかもしれない。手紙は一日に二通来ることもあり、一学期の別居期間にかなりの数になった。私は輪ゴムで束ね、しばらく保存していたのだが、いつとはなしにどこかへいってしまった。父は六十四歳でなくなったから、この手紙のあと、かれこれ三十年付き合ったことになるが、優しい父の姿を見せたのは、この手紙の中だけである。この手紙もなつかしいが、最も心に残るものをといわれれば、父があて名を書き、妹が「文面」を書いた、あのはがきということになろう。

終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親が手放さなかったのである。ところが、三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらのめに遭い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札を付け、父はおびただしいはがきにきちょうめんな筆で自分あてのあて名を書いた。「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。あて名だけ書かれたかさ高なはがきの束をリュックサックに入れ、雑炊用のどんぶりを抱えて、妹は遠足にでも行くようにはしゃいで出かけていった。一週間ほどで、初めてのはがきが着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付き添って行った人の話では、地元婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださったとかで、かぼちゃの茎まで食べていた東京に比べれば大マルにちがいなかった。ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛筆の小マルは、ついにバツに変わった。そのころ、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に会いに行った。下の妹は、校舎の壁に寄り掛かって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いたそうな。まもなくバツのはがきも来なくなった。三月目に母が迎えに行ったとき、百日ぜきをわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のかぼちゃを全部収穫した。小さいのに手をつけるとしかる父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、ひと抱えもある大物からてのひらに載るうらなりまで、二十数個のかぼちゃを一列に客間に並べた。これぐらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。夜遅く、出窓で見張っていた弟が、「帰ってきたよ!」と叫んだ。茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。あれから三十一年。父はなくなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のないはがきは、だれがどこにしまったのかそれともなくなったのか、私は一度も見ていない。

(平成18年版 中学校『国語2』 光村図書出版)

事務局:TARO