現行の能の演目数は、流派によって多少の差がありますが、およそ200曲と言われます。そのなかで上演回数の多い演目として「葵上」が挙げられます。
1972年に日本郵便が発行した切手「古典芸能シリーズ」にも、能では「羽衣」「田村」と並んで「葵上」の絵柄が選ばれています。
下の写真がその切手ですが、描かれているのは、葵上ではなく六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)です。
平安時代中期に成立の「源氏物語」の中で、葵上は桐壷帝時代の左大臣の娘であり、光源氏の最初の正妻という設定です。葵上が光源氏と夫婦らしい情愛を持てずにいる間に、プレイボーイの光源氏は次々と恋人をつくっていきます。六条御息所との関係では、光源氏に夢中になった彼女の強烈な嫉妬心が生霊となり、何人もの恋敵を苦しめていきます。
葵上は結婚10年目の26歳の時に懐妊し、つわりの苦しさを紛らわせようと賀茂祭を見物にいきますが、ここで御息所の牛車と場所争いになり(車争い)、御息所に恥をかかせてしまいます。この頃から葵上は物の怪に取りつかれ、病に伏し、とうとう産後まもなく命尽きてしまうのでした。
六条御息所は、16歳の時に桐壷帝の弟、時の皇太子の妃となり姫を儲けますが20歳で夫と死別、やがて24歳頃から7歳年下の光源氏と恋仲になっていきます。光源氏は気高く教養に富んだ御息所に猛アタックし恋人同士になるのですが、徐々に足が遠のいてしまいます。御息所は、光源氏への募る思いを年上という引け目やプライドから本心をだせず、抑圧した嫉妬心が御息所を生霊へと変えていったのです。
源氏物語でこのように描かれた葵上と六条御息所を、能では次のように表現しています。
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葵上は、物の怪に取りつかれ病に伏せることが多くなっていました。亡霊を呼び寄せる術使い 照日の巫女(てるひのみこ)に梓弓(あずさゆみ)を使って物の怪の正体を占わせると、破れ牛車に乗った女が現れます。女は六条御息所の霊だと明かし、車争いの惨めな思いを吐露し、葵上を責め、冥界へ葵上を連れ去ると言い出します。
臣下は怨霊を退けるため急いで比叡山横川の小聖(よかわのこひじり)を呼びます。小聖が祈祷を始めると、鬼女の姿となった御息所の怨霊が現れ、なおも葵上を害しようとしますが、法力の前に次第に力尽き、遂には成仏していくのでした。
思い知らずや 思い知れ
恨めしの心や 恨めしの心や
人の恨みの深くして
憂き音に泣かせ給うとも
生きてこの世にましまさば
水くらき沢辺の蛍の影よりも
光る君とぞ契らん
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舞台上で葵上は長く畳んだ小袖で表現され、人物は登場しません。嫉妬心から鬼となった御息所が葵上を打ち据える「うわなり打ち」と呼ばれる場面でも、御息所は小袖にむかって行います。
思い知らずや 思い知れ、、、恐ろしい恨みの言葉が出てきますが、背後にある本当の気持ちは、「光る君とぞ契らん」光る君とずっと一緒にいたかった、、だったはず。切ない女心に胸が痛みます。
鬼女となった六条御息所が付ける面は、切手にも描かれている「白般若」です。前回ご紹介した「道成寺」では大蛇となった清姫は、肌色の「般若」面を付けます。女性の嫉妬心や恨みを表す面ですが、高貴な存在の六条御息所には般若の中でも「白般若」を使用するのだそうです。
(事務局:ふな)