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能「隅田川(角田川)すみだがわ」

東京都墨田区に「木母寺(もくぼじ)」という天台宗のお寺があります。初代 歌川広重の『東都名所之内 隅田川八景』にも描かれたこの寺は、梅若丸(うめわかまる)という子供の供養のため、平安時代中期に建てられた念仏堂がその起源と言われます。

梅若丸は高貴な生まれで、その優秀さと端正な容姿で比叡山でも評判の稚児でしたが、人買いに連れ去られ、隅田川のほとりで亡くなりました。

能「隅田川(角田川)」は、この梅若丸の逸話を元に、世阿弥の嫡男である観世十郎元雅(かんぜじゅうろう もとまさ)(生没年1394-5年もしくは1401年から1432年)によって作られました。 ※表記について、金春流では「角田川」

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時は旧暦3月の夕暮れ、武蔵国 隅田川の渡し場に、一人の狂乱の女がやってきます。女は、いなくなった子を探すため、京の都からはるばるやって来たのです。渡し守は、舟に乗りたければ面白く狂って見せるよう言います。

女は古歌を引用し(名にし負はば いざ言問わむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと 『古今和歌集』、『伊勢物語』九段)、在原業平が詠んだ想い人と我が子を引き比べ、胸のうちを表します。

「われもまた いざ言問わん都鳥(みやこどり) わが思ひ子は東路(あずまじ)に ありやなしやと」

風流にふれた渡し守は、女を舟に乗せることにしました。

さて、対岸の柳の下に人が集まっているのがみえ、あれは何かと問うと、渡し守は哀れな子供のことを語りはじめます。その子は、人買いにさらわれ東国に連れていかれる途中で病気になり、この地に捨てられ死んでしまったというのです。死の間際、「自分は吉田某の一人息子です。亡き骸は、都の人も行き交うこの場所に塚を作り、墓じるしに柳を植えてください。」と言い残します。歳は12才でした。里人は遺言どおりに塚を作り、そして今日はその日からちょうど一年目にあたり、法要の大念仏を唱えるのだと話します。

狂女は、その子供こそ探し歩いた我が子と気付き、あまりのことに対岸に着いたあとも舟から下りることさえできません。哀れに思った渡し守が、梅若丸の塚に連れ行くと、女はこの土を掘ってわが子を見せてくれと泣き崩れますが、それは甲斐のないことと諭され、やがて人々の念仏が始まります。狂女の鳴らす鉦鼓(しょうこ)の音と南無阿弥陀仏の念仏が悲しく響き渡ります。すると塚から、子供の念仏を唱える声が聞こえ、子が姿を見せました。けれど、近寄って抱きしめようとすると、幻は腕をすり抜けてしまいます。やがて空が白み、夜が明けたとき、母親の目の前には塚に茂る草だけがあるのでした。

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 梅若丸の幻の場面は、子方(子役)を出そうとする元雅と、母の演技だけで表現しようとする世阿弥との間で意見が分かれ、父子の対立があったと言われます。現在の能公演でも両方の演出がありますが、

いずれにしても、このあまりにも悲しい物語は、人々の心を捉え、後の歌舞伎や浄瑠璃に「隅田川物」と呼ばれる作品群を生み出し、英国オペラ「Curlew River(カーリュー・リバー)1964年初演」の原作にもなりました。

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木母寺境内に再現された梅若塚

梅若丸の命日とされる415日には、今も木母寺で毎年の「大念仏法要」がおこなわれています。木母寺の名前は、梅若丸の「梅」の字の「木」と「母」に由来し、伝説に登場する塚は、「梅若塚」として境内に再現されています。

 

(事務局:ふな)