新現役!シニアわくわくブログ

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腹をくくる、ということ

退路を断って腹をくくる。実に潔い態度ですが、いざやるとなると、なかなか難しい行動パターンです。

 プロ野球の世界では、日々チーム内でレギュラーを確保するための弱肉強食の争いが展開されています。たとえば、4人が定員の内野手(バッテリーを除く)、3人定員の外野手の当落線上にある選手は、試合に出るためには自分の専門にこだわっていられない場合もあります。ロッテの角中選手は、首位打者タイトルを二度獲得した名外野手ですが、その彼も、ことしは一塁守備も練習するよう、すすめられたそうです。しかし彼はその誘いを断り、一外野手としてレギュラー争いに加わっています。

こうした潔い態度の裏側には、①自分の実力がわかっている ②その実力が客観的に評価できる ③勝負しても勝算がある、あるいは十分な可能性がある、といった自己分析が行われているに違いありません。自らの力を信じ、敢えて許容範囲を狭めて挑んだ角中選手は、腹のすわった冷静な勝負師であると思えるのです。

 世の中というのは何が起こるかわからない、風の吹き回しという言葉があるように、明日のことさえ不確実だから、半身の構えでいるのが一番安全、という考え方があります。腹の中にため込んだ事々を、この際、腹を割ってぶちまけてしまうべきか迷い、いやまだ時期尚早、という煮え切らない半身の姿勢での自己判断の下に、重要な情報が闇に葬られることのなんと多いことか。「腹のうちを読まれない」「腹三寸」、熟成した日本人が得意とされる「腹芸」は、老獪な処世術であると同時に、ひとを律すべきモラルを「芸」の領域に貶めている悪習なのかもしれません。

 ありのままに、己を虚しくして、心中のわだかまりを最小限にして生きることは、なかなか難しいことです。しかしシニアになって、生臭いしがらみから少しずつ解放されたら、腹をくくって、余計な道は断って、純度の高い生き方に向かうことを心がけたいものです。(大賀巣徒)

産経新聞「朝晴れエッセー」から

 産経新聞朝刊の第一面下部に「朝晴れエッセー」というコラムがあります。一般読者向け投稿コラムです。全国紙の第一面に、読者投稿スペースが設けられているのは珍しいのではないでしょうか。

 さて8月26日の同欄は「命との向き合い方」という題名で、若いお母さんからのものでした。幼い娘さんが、カマキリの死骸をみつけ、きれいな状態だったからなのか、持ち上げて手のひらに乗せたところ、死骸の中からアリが出てきてびっくり、地面に落とすと更に無数に這い出してきたアリが、カマキリの死骸を覆いつくしてしまいました。

当然そのお嬢さんは大ショック。その時、このお母さんが「カマキリは死んだからアリのご飯になったの。生き物はこうして死んだ生き物を食べて生きていくんだよ」と話すと、悲しそうな何とも言えない表情を浮かべていたそうでした。

しばらくアリを避けていたこの娘さんは、ある日見つけた虫の死骸をアリの中に置いて「アリさん、ご飯だよ」と呼びかけたとのこと。娘さんの中で、いのち、少し大袈裟に云えば生命の連鎖への気持ちの折り合いがついたようだと、このお母さんは感じました。

 今年私たちは、多くの人がコロナウィルスで否応なく日常を遮断され、時には無慈悲に命を奪われ、その悲しみを分かち合う機会さえ与えられない、という過酷な現実を目の当たりにしました。そして、大きな不安を抱えた中で迎えた夏休み。この限られた貴重な期間、コロナ禍と猛暑を避けるために子供たちが自然と戯れ、虫や草花や小動物たちのいのちと向き合う機会が奪われているのでは、と心配になります。自然から学ぶことには、体験するしかないからです。今年は梅雨が長く、夏の盛りが短く感じられるのか、蝉の声がひときわ響くような気がします。(T生)

100年前の出来事

  コロナウィルスのために台無しにされたような今年の夏休み。足早に過ぎ去ろうとしているかのようです。来週からは9月。そして9月1日は、1923年に発生した関東大震災に因んで設けられた「防災の日」です。阪神淡路大震災や東日本大震災、そして熊本地震と、多くの大地震に見舞われた日本ですが、いずれ必ず来ると云われている首都地震を考えると、9月1日はやはり大きな意味を持つ日だと思います。

 関東大震災当時、「この地震は天譴(てんけん=天罰)だ」と唱える著名人がいました。東日本大震災時にも「天罰」と口走った知事がいましたが、この種の短絡的な発想は、いつの時代も一緒だと思います。関東大震災の年の暮れには、「虎の門事件」と呼ばれるテロ未遂事件が発生します。共産主義者の一青年が、当時の摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)を襲撃した事件です。狙撃犯難波大助は、山口県周防村(現在の光市)の名門の出で、父親は現職の衆議院議員でした。逮捕された難波は大逆罪で起訴されます。大逆罪で有罪になれば、刑罰は死刑のみです。当時の大審院は、死刑判決を下したうえで恩赦により無期懲役とする、というストーリーのもとに、難波に改悛の陳述を求めましたが、難波があくまで主義を貫く発言をしたため、死刑が執行されるにいたりました。

父作之進は、即刻議員を辞職し地元に戻って蟄居、大助の遺体引取りも拒否して食を断ち、餓死しました。かくして名門難波家は事実上断絶。家屋敷は、今なお荒れるがままの状態とのことです。なお、大助の実兄で吉田家に養子に入った義人は、当時三菱本社に勤務しており、事件後直ちに辞表を提出したところ岩崎小弥太に止められ、終戦後は新三菱重工業の社長を務めました。

 ふとしたところで「天譴」という言葉に出会い、調べてるうちに虎の門事件に行き着きました。事件当時の首相は、日露戦争の英雄の一人、山本権兵衛。彼の第二次内閣はこの事件の責任を取って総辞職しますが、その9年前、第一次山本内閣もシーメンス事件によって総辞職を余儀なくされています。いかなる権力者も、時の運には勝てないということでしょう。(T生)